歳時記

副住職の「歳時記」vol.15 2023年(令和5年)9月 秋季彼岸会

伊藤 悦央

聖号十称

『俱会一処(くえいっしょ)』~合言葉は「また会いましょう」~

一蓮托生(いちれんたくしょう)という言葉は運命共同の意味があり、よく危機的な場面で使われますが、語源は浄土のありがたい教えにあります。文字を読むと、一つの蓮に託(たく)し生まれる。浄土の世界には蓮の花か咲いていて、念仏信者が往生を遂げる時その蓮の上に生まれると説かれています。蓮は濁った泥の中からそれに染まらない綺麗な花を咲かせることから、私たちがあやかるべき対象として仏教では切り離せない植物です。戻って一蓮托生とは、お念仏をした同士は揺るぎない縁で結ばれ、いずれ浄土の世界で出会うことができるという意味です。

また表題である俱会一処も浄土宗では本当によく使われる言葉で、俱(とも)に一つの処(ところ)で会うということから一蓮托生と同義であります。法然上人自身もまたその時代は、現在とは比べられないほど、人との今生の別れを意識する場面が多かったと思いますが、この浄土での再会を胸に、前へ進む大きな力となったことでしょう。

別れは本当に悲しいものですが、去りゆく人に送る言葉。「さようなら。またね」

至心合掌

副住職の「歳時記」vol.14 2023年(令和5年)7月 盂蘭盆会

伊藤 悦央

聖号十称

ご法事などをする時によく「回向(えこう)する」という言葉を使います。これは亡き人のためにお経をお称えすることと思われても遜色はありませんが、正しくは文字通りに「回し向ける」ことを意味します。何をかというと、私たちの功徳(くどく)(=念仏をお勤めして得た効果・徳)です。ご承知のように、本来念仏は自身の極楽往生を願ってお称えしますので、功徳も自身に積もり積もっていきます。その功徳を他におすそ分けする行いが回向であり、これは利他(りた)(=他の利益のため)の精神にのっとっている素晴らしい行いです。

この回向の行があるからこそ、仮に「うちの父ちゃんはお念仏を称えているのを見たことがない」という方がいらっしゃっても、遺された人の思いが重なって往生ができるのです。(もちろんお念仏はしっかりお称えしましょう)

また既に往生を遂げているであろう故人に対して、回向するとはどういうことでしょうか。以前往生は私たちの目的であると申しましたが、往生をしてからも大事な目的があります。阿弥陀様のお創りになった世界へまずは行って、その最高であろう環境の中で人間界ではできなかった修行をする。そしていずれは自身が仏になって衆生(しゅじょう)を導く存在になる。浄土宗ではここまで行って初めて「成仏(じょうぶつ)」すると言います。この流れを意識していただければ他には何もいらない。そう言えるほど、これが教えの大筋です。回向はお浄土で修行に勤しむご先祖様を応援し、自身の功徳を差し向けることによって、一日も早い成仏を願うことでもあるのです。

したがって回向とは僧侶だけができる特別な力ではありません。皆様を先導するのが僧侶の役目であり、ご法要の際はご参列のお一人お一人が主役になります。また法事を執り行うことは、親族・知人が力を合わすことのできる最良の場であると考えていただけたら幸いです。

私たちのお念仏の一声は亡き人にしっかりと届いています。普段ご家庭のお仏壇やお墓に向かい手を合わせるのも、ご先祖様への回向と言えるでしょう。どうぞお盆を迎えるにあたり、共により一層の御精進を下さいますようにお願い申し上げます。

至心合掌

副住職の「歳時記」vol.13 2023年(令和5年)5月 大施餓鬼会

伊藤 悦央

聖号十称

春になり生物の躍動を感じます。最近私の些細な悩みは、無数の蟻(あり)が巣から出てきて働くようになったが、彼らを巻き込まないように、境内をはき掃除するのは至難であるということ。ごみをちり取りにいれたら、そこからチマチマと一緒に入ってしまった虫たちを取り除いていく。通常の倍は時間がかかります。

この度コロナに関する規制もほぼ解除されました。思えば長い冬を越して巣から這い出してきたこの蟻たちに、例年以上に私たちと重ね合わせることができるのではないでしょうか。以前のような日常が戻ればと思う中で、「日課」があることは規則正しい生活の要素にもなります。毎日自身で決めた数の念仏を称える「日課念仏」という言葉もあり、法然上人は「数を定めそうらわねば懈怠(けたい)になりそうらえば、数を定めたるがよき事にてそうろう」と説いています。当たり前ですがこれは念仏に限る話ではないでしょう。人は怠けるものという本質は法然上人の時代から何も変わらないことに安心感のようなものを覚えると共に、その人に寄り添った教えにありがたく思います。

至心合掌

副住職の「歳時記」vol.12 2023年(令和5年)3月 春季彼岸会

伊藤 悦央

聖号十称

『始めは全体の半分』(ギリシアのことわざ)

新年のスタート。社会もウィズコロナへと舵を切ろうとしていますが、体や気持ちもすっかりなまって、自主的に何かを行うことに億劫(おっくう)になってしまいます。

そんな最近、読んだ新聞のコラムで表題のことわざを知り「いい言葉だな」と思いました。古代から伝わる格言のようで、意味は「物事を始めることができたら、全体の半分まで終わったようなもの。(それだけ物事を始めるのは難しくて偉大だ)」

これは「始まりが肝心」と言うように、入念な準備の重要性を説いていると捉(とら)えられますが、今の自分にとっては「まずは行動しなさい」と背中を押してくれているように感じました。「三日坊主」という言葉もよく浸透しているためか、失敗を恐れて何もやらないという残念なこともたくさん。そう思うと、特にコロナ社会を生きる私たちには、考え過ぎないで体を動かすのも大事かもしれません。ギリシアのことわざは身に沁みると同時に、そこから最終的な結果は問わない仏のような優しさも含む言葉に感じられました。

至心合掌