仏教用語

日常の仏教語【相続】(そうぞく)

人が亡くなった時にその財産などを遺された人々が引き継ぐ「相続」。その分配のために集まって遺品を整理していると、懐かしい品が出てきて思い出話に花が咲くことがある一方で、トラブルのもとになってしまうことも。

この「相続」元々は仏教語で、この世にあるすべての物事(相)の原因と結果は連続し、途絶えることがないという意味

ローソクの火を例えに出せば、その火はずっと灯っているように見えますが、一瞬で燃えては消え、その熱を受け継いで新たな火が起こるということが非常に短い時間で繰り返されています。その繰り返しで一つの火として存在しているように見えるのです。

このように仏教では、あらゆる物事が原因と結果の連続性の中に存在していると考えます。時代とともに、この「受け継ぐ」という部分だけが注目され、現代のような意味になったとされます。

仏教では特に「心の相続」を重要視します。心に浮かんだことは一瞬で消えますが、それは後の私たちの感情や行動に影響を与えます。しかし、心を直接変えるのは容易ではありません。だからこそ、善い心を生み出すために善い行いを積み重ね、その心を相続することの大切さが仏教では説かれています。

相続というと”モノ”にばかり目が行きがちですが、言葉や生き様など亡き人が遺してくれるものは他にもたくさんあるはず。目に見える”モノ”の相続だけではなく、亡き人の想いや、生き方などの”心”の良い部分も相続し、自身の人生の糧としたいですね。  【浄土宗新聞2月号より】

日常の仏教語【開発】(かいはつ)

近年、人工知能(AI)の開発がこれまでにないほどの勢いで発展を遂げ、話題になっています。今後もAIを活用した多くの製品が「開発」されるに伴い、ますます世の中が便利な方向に向かっていくことでしょう。

この「開発」という言葉は、仏教に由来するとされています。仏教語としては「かいほつ」と読み、「内心に潜んだ仏の心を開き発す」といった意味で用いられます。仏教には、誰もが仏となる可能性を秘めてはいるものの、それが煩悩などの欲望に覆われてしまっているという考えがあり、「開発」はその煩悩を取り除くことをいうのです。

このように、開発は自分の内心に対して用いる言葉でしたが、時代とともに、天然資源を活用することや、森林や荒れ地、科学技術などを人間の生活に役立つようにするなど、自分の外のことに対して用いられるるようになりました。

人間はさまざまな場所を切り開き、新たな技法を生み出して発展してきました。その速度は時代とともに加速しており、私たちの身の回りのものは進化し続けています。

技術が確信されていくことは素晴らしいことですが、自分の外側に対する開発をするだけでは、いつまでも心の満ち足りなさを解消することはできないのではないでしょうか。私たち一人一人が自らの「心の開発者」であると受け止め、欲望に振り回されないよう、自身の心をより善い方向に開き発すようにしたいですね。  【浄土宗新聞12月号より】

日常の仏教語【勘弁】(かんべん)

「勘弁してください」「今回だけはご勘弁を」。私たちはときに、他人に謝罪することで許しを求めることがあります。しかし、自分の都合の悪い、苦しい状況を一時しのぐための表面だけの謝罪は、逆に人を怒らせてしまうことも。

実は、この「勘弁」という言葉、元々は仏教語とされています。本来、勘は「しらべる」、弁は「区別する」という意味で、「勘弁」とは、さとりの浅深を調べ、見極める問答を指しました。

禅宗と呼ばれる宗派では、師匠が弟子の修行の進み具合を確かめるために問いかけをする、「禅問答」というものがありました。師匠はその受け答えを通して弟子の円熟度を測ったとされ、その見極めが「勘弁」であったとされます。

この問答に合格できれば、次の修行に進むことを許されたことから、次第に「許す」という意味で使われるようになったとされています。

禅宗に限らず、仏教は苦しみから離れた「さとり」を目指します。そのためには、自分にとって都合が悪いと感じることであってもウソをついたり、ごまかしたりしないことが大切とされます。

私たちが生きていくなかで、自分の失敗などで他人に迷惑を欠けてしまい謝罪することは度々あると思います。そんなときは、ただその場を取り繕うのではなく、その原因としっかりと向き合って反省をしたうえで、謝罪することで、相手もきっと「勘弁」してくれるはずです。

(引用:浄土宗新聞 令和6年8月号)

日常の仏教語【機嫌】(きげん)

人に何かを頼んだり、助けてもらったとき、相手に迷惑をかけてしまったのではないかと思い、つい「ごめんなさい」「すみません」と言ってしまうこともありますね。相手の「機嫌」を考えて行動するのは大切ですが、考えすぎてしまうと、悩みの原因になることも。

・私たちが日常的に使っているこの「機嫌」という言葉は「息世譏嫌戒」という仏教の戒律(修行者が守るべき規律)が由来とされています。

・譏には「そしる」、嫌には「きらう」という意味があり、本来「機嫌(譏嫌)」は”人々からそしりきらわれること”を表していました。つまり「息世譏嫌戒」は、修行者の生活を支えてくれる世の人の機嫌(不愉快)に思うことを息(や)めさせる戒めというもので、その中では「酒を飲む」「五辛(においの強い5種の野菜)を食べる」など、人の迷惑となる行為が禁止されました。

・このように人々が嫌うことをうかがい知り、避けるということから「機嫌を取る」という現代の用法が生まれ、そこから機嫌は、気分や感情そのものを表す言葉になったとされます。

・何かをしてもらうことや、助けてもらうことは、相手に手間や迷惑をかけることにつながるかもしれません。そんな時は謝罪の言葉が出てしまいがちですが、それを感謝の言葉に置き換えることはできないでしょうか。感謝の言葉は双方の気持ちも前向きにし、より良い関係を築くきっかけになるはずです。

(引用:浄土宗新聞 令和6年4月号)

日常の仏教語 【皮肉】(ひにく)

誰かの問題点を指摘しなければならない時、相手が傷つかないようにと配慮して遠回しに伝えることもありますね。うまく伝わってくれるといいですが、「皮肉」ととらえられてしまうことも。この「皮肉」、仏教に由来する「皮肉骨髄」という言葉が元になったとされ、禅を中国に伝えた達磨大師とその弟子との間に「皮肉骨髄の話」という次のような逸話があったと伝えられます。

―  あるとき、達磨大師が、4人の弟子に仏教についての質問をすると、弟子たちはそれぞれ自分なりに答えました。大師は1人目の答えを聞くと「お前は私の皮を得た、合格」と告げました。同様に、2人目は「肉」、3人目は「骨」、4人目は「髄」を得たとして合格を言い渡し、それぞれが自分の教えを受け継いだと認めました。

― このエピソードから皮肉骨髄は、「宗祖の信念・思想・人格などのすべて」を表す言葉と言われます。達磨大師は皮・肉・骨・随に優越をつけなかったともされますが、「皮肉」は「骨髄」に比べて体の表面に近いため、理解が浅いという批判として使われるようになり、転じて遠回しに意地悪く非難することを指すようになりました。

物事を言葉で伝える際、相手を思いやる配慮は大切です。しかしそれで表層的なことしか伝わらなければ、かえって誤解を与えることもあります。私たち自身、「皮肉」だけでなく「骨髄」までしっかりと伝えられるよう心がけたいですね。

(引用:浄土宗新聞 令和6年2月号)