歳時記

副住職の「歳時記」vol.06 2021年(令和3年)9月 秋季彼岸会

伊藤 悦央

聖号十称

日本の仏教は、釈尊の説いた教えの中で何を重要とするかの違いで、様々な宗派があります。間違ってはいけないのは、各宗派の開祖は宗教を創造したのではなく、仏の教えから選び取ったということ。対機(たいき)説法(能力の違う個人に応じて教えを説く)の理念があるように、選び取る行為自体は大事なことなのです。

『法門は互角の論なりしかれども、機根(きこん)比べには

源空(げんくう)勝ちたりき』

これは法然上人が京都の大原にて、他宗の高名な上人たちと浄土宗義について論議した「大原問答(1186年頃)」の時を語った御法語です。訳は「教説についての優劣はなくても、機根比べ(教えを信じる人の能力とそれに見合った教えか)には源空(法然上人の自称)が優れていました。」 この機根という言葉が、浄土宗信仰の一番の理由であり、その信仰を支えています。

比叡山で智慧第一と呼ばれた法然上人が、「釈尊と同じようには、自分では悟れない」と絶望をへて、辿り着いたお念仏のみ教え。どうぞ胸を張って自身の宗旨を意識してください。

至心合掌

副住職の「歳時記」vol.05 2021年(令和3年)7月 盂蘭盆会

伊藤 悦央

聖号十称

人間に生まれたことともう一つ私たちが起こしている奇跡は、仏教の教えとの出会いです。

お釈迦様の時代の逸話があります。舎衛国(しゃえこく)という古代インドの都市は、お釈迦様が僧院の祇園(ぎおん)精舎(しょうじゃ)を拠点にし、長年に渡り布教を続けた場所でした。それでも国の三分の一にあたる三億人(昔のインドの単位で、現在の三十万人)の人々が、お釈迦様を見たことも聞いたこともなかった、という話です。これは教えと出会うことがいかに難しいかを表すとともに、お釈迦様の時代さへご縁の薄い人々がいたのは驚きませんか。まして遠い時代を生きる私たちが、仏の教えにめぐり会えたのは、かけがえのない縁です。法然上人はこの機会を「いたずらにあかし暮らして、やみなんこそ悲しけれ」(出会ったにもかかわらず、日々むなしく暮らすほど悲しいものはない)と仰っています。

何をすればいいのか。難しいことはありません。お念仏はもちろんですが、お盆を迎えるにあたりご先祖様に感謝する気持ちは、立派な信仰です。どうぞお墓にお参りください。

至心合掌

副住職の「歳時記」vol.04 2021年(令和3年)5月 大施餓鬼会

伊藤 悦央

聖号十称

私たちが人間に生まれた奇跡。これをお釈迦様と法然上人は実に見事な喩(たと)えで表現しています。

まずお釈迦様が存命であられた頃。インドを流れるガンジス川のほとりにて、弟子の阿難(あなん)に足もとの砂をすくわせ言いました。「限りない数の生き物がこの世にいる。無辺に広がる足もとの砂のように。人として生を授かるのは、そなたのすくった手のひらの砂の数くらいだろう」(ガンジス川流域面積173万㎢ 日本の国土の4.5倍)

次に法然上人は、人として生まれることを「受け難き人身(にんじん)を受けて」とし、「梵天(ぼんてん)より糸を下(くだ)して、大海の底なる針の穴を通さんがごとしといえり」とおっしゃっています。梵天は遥か上空の天上界のこと。

自分が今この場所で、呼吸をしているだけでも正しく奇跡のように感じます。改めて考えると、「縁」という言葉以外に、私たちが人間以外の生命に生まれなかった理由があるでしょうか。まずは生きているだけで感謝です。ありがたき言葉を胸に自分が何をするべきか。焦らずとも共に考えて参りましょう。

至心合掌

副住職の「歳時記」vol.03 2021年(令和3年)3月 春季彼岸会

伊藤 悦央

聖号十称

私たちがお念仏をお唱えする理由とは何でしょうか。

紀元前、お釈迦(しゃか)様が悟りを求めて出家した時代には、輪廻(りんね)(生命あるものは何度も生まれ変わること)の世界から解脱(げだつ)(脱出)することが人々の課題として提起されていました。生まれ変わるというと聞こえは良いですが、また人間になれるという保証はありません。輪廻の思想は確実に「苦」であります。法然上人はお釈迦様の説かれた教えから、今の私たちに出来ることをお示しになられたのがお念仏です。輪廻から解脱するという目的は何も変わることはありませんが、仏教を信仰する上での前提と言えます。

私がしぶしぶと勉強机に向かっっていた子供の頃には、目的を意識しない行為、それ自体にやっている意味が感じられませんでした。仏教では「救われたい」という思いをしっかりと持つことで、一層のお念仏の理解と、阿弥陀様に対する心のこもったお参りが出来れば幸いです。

至心合掌

‐追伸‐お寺にお参りに来たら、自然に手を合わせる習慣が身につくと素敵です。

副住職の「歳時記」vol.02 2020年(令和2年)12月 佛名会

伊藤 悦央

聖号十称

コロナ禍の社会生活にも影響がある中、皆様におかれましては健やかにお過ごしのこととお祈りいたします。

私が稱名院に来て早一年が経ちますが、社会を取り巻く情勢は様変わりしました。新型コロナの流行は当院でも施餓鬼会を始めとする年中行事の中止または、内容を変更しての対応に見舞われました。皆様とお会いし、お目にふれる機会が叶わず誠に残念です。

社会活動の制限により、心身が疲れてきています。自分に気合を入れたと思っても次の日には落ち込んでしまう。移ろいやすい感情は、私たちの信仰心に似ていますが、その上で阿弥陀仏は人間の感情が揺らぐのはとっくにご承知で、念仏をお唱えしたすべての極楽往生がしっかりと説かれています。改めて盤石な教えと実感できます。どうぞ自身の気持ちの変化を受け入れて、溜め込み過ぎないように共に注意しましょう。

コロナ禍の中でも節目にはお寺にお参りに来て下さり、またお参りは自粛してもお気にかけて下さりました皆様のお陰で、本年も法務を務めることが出来ました。篤く感謝申し上げます。

合掌

副住職の「歳時記」vol.01 2020年(令和2年)7月 盂蘭盆会

伊藤 悦央

聖号十称

新型コロナウイルス禍、社会生活にも影響がある中、皆様におかれましては健やかにお過ごしのことと存じます。

「終わり良ければすべて良し」という言葉があるように、様々な苦労を経ても、最期に「いい人生だったな」と思いたいものです。しかし現実は、私たち人間は様々で、その終わり自体が良いとはとても思えない方もいらっしゃるでしょう。

そこで死を終わりとしない、あの世、いわゆる「終わりの向こう側」をお示しくださったのが浄土宗を開いた法然上人です。お念仏を称えた者は必ず極楽往生をする。すなわち「終わりの向こう側」はどんな人でも例外なく「良し」であることが確定しています。この間違いなく確定している「良し」という事実は、阿弥陀様より「何回でも失敗しなさい」とお声掛け頂いている思いがします。何よりも私たちがこの現実世界で、安心して生きていける糧になることを強く信じています。

大変な情勢ではありますが、どうぞ感謝の気持ちを忘れずに、日々を過ごしていきましょう。