歳時記

副住職の「歳時記」vol.16 2024年(令和6年)3月 春季彼岸会

伊藤 悦央

聖号十称

平成25年10月、伊豆大島で発生した台風による土砂災害。以降毎年、自分が属する東京の浄土宗青年僧侶の会では、犠牲になられた方の慰霊法要を現地のお寺にて行っている。伊豆大島は近年発生した「東京」での災害であり、その地域の僧侶の勤めとして毎年行っている。毎回欠かさずにご参列頂く方や、「島ではこんな大勢のお坊さんのお経を聞けないからありがたい」という言葉に、身が引き締まる思いになる。

法要後には災害の発生現場へ向かうため、ホテルを営むお檀家様のマイクロバスで移動をするのだが、発車してほどなくクラクションがプーと鳴った。何事かと外を見たら「俺のお隣さん」と運転の従業員さんが一言。都会にはない島の温かみに、自分は只々「いいな」と思い、人を見かける度にそのクラクションは何回も鳴らされた。船の都合上、短い滞在であるが毎回島の方々にはよくして頂き、自分たちも元気を貰っている。

本年は元日に石川能登半島にて大地震が発生しました。募金活動でもまずは身の回りを整えるだけでも、自分のできることをしていきたいと思います。

至心合掌

副住職の「歳時記」vol.15 2023年(令和5年)9月 秋季彼岸会

伊藤 悦央

聖号十称

『俱会一処(くえいっしょ)』~合言葉は「また会いましょう」~

一蓮托生(いちれんたくしょう)という言葉は運命共同の意味があり、よく危機的な場面で使われますが、語源は浄土のありがたい教えにあります。文字を読むと、一つの蓮に託(たく)し生まれる。浄土の世界には蓮の花か咲いていて、念仏信者が往生を遂げる時その蓮の上に生まれると説かれています。蓮は濁った泥の中からそれに染まらない綺麗な花を咲かせることから、私たちがあやかるべき対象として仏教では切り離せない植物です。戻って一蓮托生とは、お念仏をした同士は揺るぎない縁で結ばれ、いずれ浄土の世界で出会うことができるという意味です。

また表題である俱会一処も浄土宗では本当によく使われる言葉で、俱(とも)に一つの処(ところ)で会うということから一蓮托生と同義であります。法然上人自身もまたその時代は、現在とは比べられないほど、人との今生の別れを意識する場面が多かったと思いますが、この浄土での再会を胸に、前へ進む大きな力となったことでしょう。

別れは本当に悲しいものですが、去りゆく人に送る言葉。「さようなら。またね」

至心合掌

副住職の「歳時記」vol.14 2023年(令和5年)7月 盂蘭盆会

伊藤 悦央

聖号十称

ご法事などをする時によく「回向(えこう)する」という言葉を使います。これは亡き人のためにお経をお称えすることと思われても遜色はありませんが、正しくは文字通りに「回し向ける」ことを意味します。何をかというと、私たちの功徳(くどく)(=念仏をお勤めして得た効果・徳)です。ご承知のように、本来念仏は自身の極楽往生を願ってお称えしますので、功徳も自身に積もり積もっていきます。その功徳を他におすそ分けする行いが回向であり、これは利他(りた)(=他の利益のため)の精神にのっとっている素晴らしい行いです。

この回向の行があるからこそ、仮に「うちの父ちゃんはお念仏を称えているのを見たことがない」という方がいらっしゃっても、遺された人の思いが重なって往生ができるのです。(もちろんお念仏はしっかりお称えしましょう)

また既に往生を遂げているであろう故人に対して、回向するとはどういうことでしょうか。以前往生は私たちの目的であると申しましたが、往生をしてからも大事な目的があります。阿弥陀様のお創りになった世界へまずは行って、その最高であろう環境の中で人間界ではできなかった修行をする。そしていずれは自身が仏になって衆生(しゅじょう)を導く存在になる。浄土宗ではここまで行って初めて「成仏(じょうぶつ)」すると言います。この流れを意識していただければ他には何もいらない。そう言えるほど、これが教えの大筋です。回向はお浄土で修行に勤しむご先祖様を応援し、自身の功徳を差し向けることによって、一日も早い成仏を願うことでもあるのです。

したがって回向とは僧侶だけができる特別な力ではありません。皆様を先導するのが僧侶の役目であり、ご法要の際はご参列のお一人お一人が主役になります。また法事を執り行うことは、親族・知人が力を合わすことのできる最良の場であると考えていただけたら幸いです。

私たちのお念仏の一声は亡き人にしっかりと届いています。普段ご家庭のお仏壇やお墓に向かい手を合わせるのも、ご先祖様への回向と言えるでしょう。どうぞお盆を迎えるにあたり、共により一層の御精進を下さいますようにお願い申し上げます。

至心合掌

副住職の「歳時記」vol.13 2023年(令和5年)5月 大施餓鬼会

伊藤 悦央

聖号十称

春になり生物の躍動を感じます。最近私の些細な悩みは、無数の蟻(あり)が巣から出てきて働くようになったが、彼らを巻き込まないように、境内をはき掃除するのは至難であるということ。ごみをちり取りにいれたら、そこからチマチマと一緒に入ってしまった虫たちを取り除いていく。通常の倍は時間がかかります。

この度コロナに関する規制もほぼ解除されました。思えば長い冬を越して巣から這い出してきたこの蟻たちに、例年以上に私たちと重ね合わせることができるのではないでしょうか。以前のような日常が戻ればと思う中で、「日課」があることは規則正しい生活の要素にもなります。毎日自身で決めた数の念仏を称える「日課念仏」という言葉もあり、法然上人は「数を定めそうらわねば懈怠(けたい)になりそうらえば、数を定めたるがよき事にてそうろう」と説いています。当たり前ですがこれは念仏に限る話ではないでしょう。人は怠けるものという本質は法然上人の時代から何も変わらないことに安心感のようなものを覚えると共に、その人に寄り添った教えにありがたく思います。

至心合掌

副住職の「歳時記」vol.12 2023年(令和5年)3月 春季彼岸会

伊藤 悦央

聖号十称

『始めは全体の半分』(ギリシアのことわざ)

新年のスタート。社会もウィズコロナへと舵を切ろうとしていますが、体や気持ちもすっかりなまって、自主的に何かを行うことに億劫(おっくう)になってしまいます。

そんな最近、読んだ新聞のコラムで表題のことわざを知り「いい言葉だな」と思いました。古代から伝わる格言のようで、意味は「物事を始めることができたら、全体の半分まで終わったようなもの。(それだけ物事を始めるのは難しくて偉大だ)」

これは「始まりが肝心」と言うように、入念な準備の重要性を説いていると捉(とら)えられますが、今の自分にとっては「まずは行動しなさい」と背中を押してくれているように感じました。「三日坊主」という言葉もよく浸透しているためか、失敗を恐れて何もやらないという残念なこともたくさん。そう思うと、特にコロナ社会を生きる私たちには、考え過ぎないで体を動かすのも大事かもしれません。ギリシアのことわざは身に沁みると同時に、そこから最終的な結果は問わない仏のような優しさも含む言葉に感じられました。

至心合掌

副住職の「歳時記」vol.11 2022年(令和4年)9月 秋季彼岸会

伊藤 悦央

聖号十称

毎日境内を掃いていると、樹木や花が茂り・咲き、散るといった自然の周期が分かってきます。現在は百日紅(さるすべり)の花が綺麗に咲いていますが、朝には沢山の紅い花が落ちていて、それを掃いている側からまたぽたぽたと落ちてきます。それでも見上げると木いっぱいに咲く花の姿があり、「こうも毎日掃除しているのに、なぜ花が無くならない?」と疑問が湧きました。調べたら百日紅という漢字が表す通り、7月~9月の約100日に渡り咲き続ける。また桜などと違い花が散った後も、同じ枝から新しいつぼみが開くのを繰り返すそうです。まさしく百日紅の「名は体を表す」所を毎日肌身に感じています。

取り除いてもすぐ溜まる塵(ちり)はよく人の煩悩に例えられ、掃除は身も心も清める大切な行いです。同時に健康な生活と良い仕事する為には欠かせませんので、お互いに頑張って勤めましょう。100日間美しい花を見せてくれる生命に感心しつつ、「しばらくは大変な朝が続くな」と思った自分もまだまだ精進してまいります。

どうぞ秋の彼岸は実りへの感謝と冬を迎える為に、今一度自身を整える機会になればと存じます。

至心合掌

副住職の「歳時記」vol.10 2022年(令和4年)7月 盂蘭盆会

伊藤 悦央

聖号十称

『善(よ)き地に善き種を蒔かんがごとし。構えて善人にしてしかも念仏を修すべし。これを真実に仏教に随う者というなり』

浄土宗の教えは、お念仏をお称えしたすべての人の極 楽往生が約束されていますが、亡くなるまで好き勝手に生きていいとは言われていません。法然上人は阿弥陀仏の慈悲を父母の愛のように、「善き子をも悪(あ)しき子をも育めども、善き子をば喜び、悪しき子には嘆くがごとし」と例えました。非常にシンプルで分かりやすいですね。自身では悟れないことを自覚し、仏によって救われるとしても、「出来ることはしましょう」という思いが大事です。他力本願だとしても、この「出来ることはやる」精神が浄土宗の特徴であり、良い点だと思います。あくまで自身の範囲でご無理のないように。人と比べる必要はありません。

お盆はご先祖様が帰ってくる日とされています。普段、ご先祖様に恥ずかしくないようにと律する私たちの思いは、善い行いをして阿弥陀様にお喜び頂くことに、繋がっているのではないでしょうか。

至心合掌

副住職の「歳時記」vol.09 2022年(令和4年)5月 大施餓鬼会

伊藤 悦央

聖号十称

前回の補足です。浄土宗の教えは専ら念仏をお称えすることが第一ですが、実際にはそれだけをしているわけではありません。ひたすらに一つのことのみをやり続けるのは中々難しいものです。

私たちは日常の仕事や勉強でも、効率のよい作業のために、程よくその内容や科目を変えたりすることを、ごく自然に行っています。これと同様で、色々なお経を読み作法をすることは、それがきっかけとなり、念仏をより一層お称え出来る手助けになると考えられます。

教えではこの念仏以外の行いを、文字通り念仏のお称えを助ける「助業(じょごう)」と言い、またお念仏は極楽往生が正しく定まる「正定業(しょうじょうごう)」と言います。読経を始め、座禅や写経、旅先でお寺を巡る行為すべてが「助業」であり、意味のない行いはありません。ただしあくまでも「正定業」が主であることは明らかですので、何をするにつけても、お十念をいたしましょう。

まだ安心できませんが、今回の施餓鬼会案内を始め、皆様と一緒に、お念仏をお称えする日常が戻って来ればと願うばかりです。

至心合掌

副住職の「歳時記」vol.08 2022年(令和4年)3月 春季彼岸会

聖号十称

今年の冬は寒いですね。お寺にいると、朝に桶や蓮華鉢の水が凍っているのを見て、「今日は本当に冷えるな」と感じます。年に数回あればいいのが、今年は毎日のように凍る時も。その冬も折り返しを過ぎて、あっという間にお彼岸の季節が訪れようとしています。

お彼岸はご先祖様を思うと共に、自分自身を見つめ直して精神を整える期間でもあります。新年度を迎える前と重なって、自身を思うにはいいタイミングです。また、お中日の春分・秋分の日は太陽が真東から昇り真西に沈みます。私たちが往生を願うお浄土を「西方極楽浄土」と言うように、沈みゆく太陽を見て「あの方角にお浄土の世界があるんだ」と思いを馳せるのもいいでしょう。夕日を眺めてお浄土をイメージすることは、「日想観(にっそうかん)」と言う修行法としてお経にも説かれています。日頃、私たちはただ念仏をお称えするのを第一としていますが、念仏をより一層お称えする手助けになると考えれば、意味のない行はありません。

コロナウイルスが猛威を奮っていますが、お気を付けてお参り下さい。

至心合掌

副住職の「歳時記」vol.07 2021年(令和3年)12月 佛名会

伊藤 悦央

聖号十称

「今日が人生最後の日だと思って生きる」という良い言葉がありますが、中にはオーバーワーク(働ぎ過ぎ)になってしまう方もいるかもしれません。ただもっと根本的なことで、「自分もいつかは死ぬんだ」という事実から目をそらさずに生活することはとても大事です。それはなるべく悔いのない人生を歩み、生きている上で様々な災難にあった時に心の動揺をやわらげることの助けになるからです。海にさまよう船をロープで繋ぐイメージでしょうか。どんなに波のままに右へ左へと流されても、芯(信)があれば一定の距離以上に船(心)が離れることはなく、いつかは戻って来ます。離れ過ぎなければよいのです。昨今、世界的にも宗教の危険な面が目立ちますが、正しい信仰は人が生きていく大きな糧になると強く信じています。

浄土宗の教えである極楽浄土への往生は、前述した死に対する意識を超越して、明確に死後の行く先として示されています。ご多忙であろう社会生活の中で、心の片隅でも結構です。お念仏の信仰を忘れずに、力にして下さい。

至心合掌