
副住職の「歳時記」vol.20 2025年(令和7年)3月 春季彼岸会
聖号十称
日常生活に特別な不満はなくても、一日がただ過ぎてしまったと思う時があります。法然上人が遺したお言葉は、そのような現代の私たちにも通じていて、私自身は何回読んでも「なるほどな」と心に響きます。名文も多く一つを紹介します。
-法然上人御法語『無常(むじょう)迅速(じんそく)』-
―それ、朝(あした)に開くる栄花(えいが)は夕べの風に散り易(やす)く、夕べに結ぶ命露(めいろ)は、朝の日に消え易し。これを知らずして常に栄えん事を思い、これを覚(さと)らずにして久しくあらん事を思う。
《朝に咲いた栄光の花は夕方の風に散りやすく、夕方に結ぶ命の露(つゆ)は朝の日によって消えやすい。これを知らずに常に栄えることを求め、これを意識せずにいつまでも生きることを願う。》
然(しか)る間、無常の風ひとたび吹きて、有為(うい)の露、永く消えぬれば、これを曠野(こうや)に捨て、これを遠き山に送る。屍(かばね)は遂(つい)に苔(こけ)の下に埋(うず)もれ、魂は独り旅の空に迷う。妻子(さいし)眷属(けんぞく)は家にあれども伴わず、七珍万宝(しっちんまんぼう)は蔵に満てれども益(えき)もなし、ただ身に随(したが)うものは後悔の涙なり。
《そうしている間に無常の風がひとたび吹くと、たちまち有限な命の露は永遠に消えてしまい、亡骸は広野に捨て、または遠くの山に葬る。屍はいずれ苔の下に埋まり、魂は一人で空を旅して彷徨う。妻子と親類がいても御伴(おとも)はしない。様々な財宝が蔵に満たされていても、役には立たない。ただ身に随うのは後悔の涙だけです。》
遂に閻魔(えんま)の庁に至りぬれば、罪の浅深(せんじん)を定め、業(ごう)の軽重(きょうじゅう)を勘(かんが)えらる。法王、罪人に問うて曰(いわ)く、「汝(なんじ)、仏法(ぶっぽう)流布(るふ)の世に生まれて、何ぞ修行せずして徒(いたずら)に帰り来(きた)たるや」と。その時には、我等いかが答えんとする。速(すみ)やかに出要(しゅつよう)を求めて、虚(むな)しく三途(さんず)に還(かえ)ることなかれ。―
《そして閻魔大王の庁に着くと、罪の鑑定がされて、その行為の重さが判断されます。大王が罪人に尋ねるには、「お前は仏法が流布している時代に生まれたのに、どうして何の修行もせずに、虚しく帰ってきたのだ。」その時に私たちはどう答えましょうか。
速やかに輪廻解脱の道を求めて、虚しく三途の川に帰ってはならない。》 至心合掌
伊藤 悦央