称名院の歴史

称名院の歴史

称名院外景開創は文禄三年(1594年)と言われており、誓願寺(現府中市)の塔頭(たっちゅう)寺院でした。小田原にあった誓願寺が北条氏滅亡後徳川家康から江戸移転を命じられ、その際稱名院も神田銀町(しろがねちょう)に移転。本寺である誓願寺は浄土宗江戸四ヶ寺の一つに数えられていました。

その後、明暦三年(1657年)、明暦の大火(振袖火事)で寺が焼失。江戸の新たな都市計画がはじまり誓願寺と共に浅草北寺町(後浅草田島町、現西浅草二丁目)に移り再興。町名の田島町は本寺の山号田島山に因んだものだそうです。この山号の命名は、神田銀町にあった頃、徳川家康が鷹狩りに出る折、領地を見て「田んぼの中の島のようじゃ」とのことから下賜されたものだそうです。

時は江戸から明治、大正と進み、大正十二年(1923年)の関東大震災では浅草の大部分が焼失。更なる浅草の都市計画から移転を余儀なくされ、昭和の初めに現在地に移建、復興されました。